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自意識を持った宇宙—メタフィクション・少女映画として見る『アイスと雨音』

REVIEW

2018.05.07 update.

というわけで、周囲の評価が高く以前から気になっていた『アイスと雨音』を先日やっと観て、その評判通り、見事にこの74分ワンカットの衝撃にぶちのめされてきました。

それでもって私は、間違いなくこの作品は映画界を揺るがす衝撃作であり、春にして早くも今年のベスト映画最有力候補に急浮上した大傑作であると確信しているのですが……filmarks等で他の感想をざっと見たところ、その独特な演出に割と賛否が分かれている印象。

おそらく、この賛否両論になるポイントは、劇中劇やメタフィクションの文脈からとらえているかどうかで評価が割れるポイントでもあるのではないかと思い立ったので、低評価側? の意見にも触れつつ、そのポイントがメタフィクション的にどうすごいのかを個人的に書いてみようと思います。

あと、これはさらに個人的な見方なのですが、『アイスと雨音』は、主演の森田想を中心に岩井俊二の『花とアリス』よろしく登場人物の少女性(ここで言う「少女」は、フィクションをはじめとした人の思考の中にのみ存在する概念のようなものを指します。澁澤龍彦とか、そっち系の文脈)を主題に据えた少女映画でもあるとも思っているので、その視点も少々交えつつ。

言うまでもないですが、これは私個人のひとつの見方ですので、こんな解釈もあるんだなー、という感じでとらえていただければと。あとTwitterにも書いた通り、「劇中劇」「メタフィクション」というワードにときめく人、かつ『アイスと雨音』視聴済の人向けです。がんがんネタバレしますので、先に映画の衝撃を味わいたい方は(地域によっては)まだ間に合いますのでぜひぜひ劇場へ!!!

 

スクリーンの向こうの観客を見据える2つの存在、MOROHAと森田想

映画冒頭すぐ、まず印象的なのがスクリーンの向こうの観客をまっすぐに見つめ熱く語りだすMOROHAのMC、アフロ。この時点で私は「ああ、この映画は観客の存在を前提にしたものなんだ」と悟り、のっけからガツンと引き込まれたのだけど、そこからもう数分も観ていれば、MOROHAの存在は劇伴音楽を兼ねた「ナレーション」あるいは「語り部」という舞台装置であることは誰でも何となく理解できるだろう。オーディションで選ばれた若者たちの舞台の1ヶ月前、という体で物語ははじまるが、MOROHAはその場面場面の傍に立ちながらラップを紡ぎ、音楽を奏で、しかしその場にいる誰にもその存在は認識されることなくシーンは続く。

その独特のラップスタイル・演奏スタイルも相まって、「なんだこの人たちは?」と違和感を覚えた人も少なくないと思うけれど、その違和感自体が、MOROHAがこの映画の重要な役割を担っていることの明示であるように思う。つまり、明確に彼らがナレーションや黒子のような舞台装置であることを示すことによって、物語の虚構性を高め、「舞台に向けて演技の稽古をする若者たち」という作中における現実すらも、実は彼らの演じている舞台/虚構なのだという入れ子構造を形成しているのだ。

このMOROHAの存在や、後述する全編ワンカットの手法、登場人物が演技(劇中劇)を始める際に画面上下に黒帯が入る演出などにより、『アイスと雨音』は紛れもなく、スクリーンの外側から映画を見つめる観客の存在を想定して作られたメタフィクションたり得ている。

そして、MOROHAの他にもうひとつ(もうひとり)、明らかにスクリーンの向こうにいる我々観客の存在を認識している存在がある。この映画の中心人物、森田想だ。

それが判明するのは、冒頭の舞台1ヶ月前の場面。稽古を終えた後の森田想が、周りのスタッフが撤収する中独りで舞台の脚本を手に読み演じるシーンがある。そのシーンのとある瞬間、なんと森田想はスクリーン越しにこちらを見つめてくる——

その瞬間、比喩でなく、ぞわーっと鳥肌がたった。

舞台装置であるMOROHAが観客を認識しているのならまだわかる。しかしなぜ、あくまで作中の「森田想という役を演じる森田想」という登場人物のひとりであるはずの森田想が、そして登場人物の中で彼女だけが、スクリーンの外側にいる観客の存在を知っているのか?

この疑問に対しては、場面が進むにつれて、何となく私なりの見解が得られてきた。のだが、それについても後ほど、少女映画としての視点も絡めながら述べたいと思う。

 

奇跡の一発撮り、74分全編ワンカットの衝撃

『アイスと雨音』を観る前、トレイラー等で得た前情報として印象的だったのが、「74分ワンカット」という触れ込み。そして同時に、舞台上演当日までの1ヶ月間を描くストーリーであるとも聞いていたので、それってどゆこと? と気になって仕方なかった。1ヶ月をワンカットで、って、どうやって?

これは観た人ならわかるかと思うが、文字通り、映画の最後の最後までカットは挟まず、場面転換は「舞台1ヶ月前」や「2週間前」などのテロップのみによって行われる。

一見さりげないが、演る側の労力からすればこれは死ぬほど大変なことだ。74分間の撮影を、一発勝負で。一度でも失敗したら全部がやり直し。しかも役者の中にはオーディションで選ばれた演技未経験の子だっている。噂では4テイクを重ねたとか……。

松居大悟監督はパンフレットの中で「舞台というのは開演したら誰も止められずにカーテンコールまで迎えます。だからこそ、自分にとってワンカットで撮ることはすごくシンプルな方法論でした」とコメントしているが、それを実行に移してしまう時点で(良い意味で)正気の沙汰ではない。

しかしこれが、本当に「誰も止められず」加速していく物語を演出し、観客をも巻き込んでいくような疾走感によって感情の高みへとのぼりつめることに成功している。実際私も鑑賞中、MOROHAの音楽も相まってか、自分でもよくわからない謎のエモさに襲われて何回か泣きそうになった。

そして、登場人物たちの表情やしぐさ、その一つひとつが、決してこの一発撮り以外には存在し得ない、彼らの覚悟の演技によって生まれた奇跡のようなものだと、そう実感してこそ、最後の最後、「カット」の一声がかかった瞬間に、何かとてつもなく崇高なものを見てしまったような感覚や、役者たちは役から(おそらく)役の外の現実へ、我々観客は映画から現実へ、のぼりにのぼりつめた先でやっとのこと解き放たれたことへのえも言われぬ感動を覚えることができたのだろう。

 

ただひとり、ずば抜けたフィクション性≒少女性を湛えていた森田想

さて、ここからは私の、さらに個人的な少女映画としての観点に移るのだが——どうしてもこれは言及しておきたかった——「アイスと雨音」において中心的な登場人物(実際、ワンカットの撮影の中でもカメラはほぼ彼女を追っているため主演といっても過言ではない)である森田想の、ある種の異質さについてである。

私がfilmarksで目にしたレビューの中には、森田想のキャラクター像について否定的な意見も散見された。しかしこれは、MOROHAについてと同様、最初から意図して登場人物の中で森田想のみが異質・特殊な役割として物語の中に位置づけられたがゆえに生じたものと推察する。

具体的には、(これは元になった戯曲の『MORNING』に由来するものかもしれないが)劇中劇における森田想のファム・ファタール的なキャラクター像と、それを演じる作中の「森田想自身」の、「現実」から一歩引いて冷ややかに傍観しているかのような態度、そして、前述したスクリーンの向こうにいる観客を認識しているかのような振る舞い——これらの、一見過度にセンセーショナルにも見える描写が、良くも悪くも森田想の物語における異質さを強調している。

過去に、フィクションにおける括弧付きの「少女」という存在に興味を抱いて文学を嗜んでいたことのある私の目には、この異質さは圧倒的なフィクション性≒少女性として映った。

作中では、一貫して舞台に立つ6人のキャストたちは「若者のリアル」の象徴である。……その中で、(彼女の演技力が突出しているということもあるが)森田想のみがそのリアルからふわふわと浮き上がっており、劇中劇作中現実(スクリーンの向こう)の境界を気まぐれに行き来しているかのような、ずば抜けた虚構性を湛えているのである。

これは持論だが、フィクションにおける括弧付きの「少女」とは、彼女が存在する世界に決して安住せず、反抗的でなくてはならない、という条件がある。その条件にそって言えば、森田想は紛れもなく「少女」であり(もっと言えば、他の5人のキャストの物語後半の振る舞いも皆「少女的」「少年的」であるとも言える)、その少女性を演出するために、彼女ひとりだけがメタ視点を有していると考えれば合点がいく。

そして、この森田想の少女性は、物語後半において重要な舞台装置として機能する——さて、これをふまえて、その物語後半で多くの人が抱いたであろうあの疑問について掘り下げてみよう。

 

なぜ想たちは、舞台の中止にあれほど抵抗したのか? そして、「自意識を持った宇宙」とは?

物語後半の、舞台が中止になったという事実に徹底して反抗する想たちの行動に、社会の現実に染まりきった我々大人たちは、こんなことを頭の片隅で思い浮かべたのではなかろうか。

「いや、現実的に考えて、ああまでして反抗する? いくら若気の至りって言ってもさ。ていうか森田想に関してはそんなに楽しそうに舞台の稽古してなかったじゃん。……あーあ、結局はそうやってご都合主義で、無理やりストーリーをまとめちゃうんだなー……」

そう思う心境は痛いほどわかる。だが、もう一度考え直してみてほしい。『アイスと雨音』の、メタフィクションとしての側面をふまえて、だ。

私なりの結論から言うと--想たちのあの悲痛なまでの反抗は、舞台の中止という現実に握り潰されそうな、劇中劇の登場人物としての想たち、あるいはそれを演じている作中の想たち、あるいはそれを演じている現実の想たち(あるいは……)の、「無かったことにしないで」「死にたくない」「生きたい」という命をかけた叫びだったのではないだろうか。

そう考えれば、物語後半で繰り返された「自意識を持った宇宙」という言葉もしっくりくる。--たとえフィクション/舞台/映画の上での架空の人物とはいえ、彼らは皆、「演じる」ということによって世界を認識し、思考する、自意識を持ってしまった。それはすなわち、宇宙そのものであるということ。それを無かったことにするということは、宇宙そのものを殺すということにも等しい。--「現実」に生きる私たち観客も同じだ。「私たちは、自意識を持った宇宙」なのだ。

この一言を、実感を持って観客の心に響かせるために、「アイスと雨音」という映画は、メタフィクション的な演出をさんざん重ねたのではなかろうか。劇中劇作中現実といった入れ子構造を複雑に絡ませ、あえて現実と虚構の境界を曖昧にすることで、「舞台の中で生きる彼らは確かに生きている」「もちろん、観客であるあなたもそれに無関係ではない」というメッセージを、スクリーン越しに私たちに伝えようとしたのではないだろうか。

 

クライマックスのシーンで、MOROHAがスクリーン越しに問いかける。たとえば学校のクラスで、勇気を出して立候補したにも関わらず、嫌々出馬した人気者に敗れて落選してしまった、そんな彼に向けられる視線と、私たちが想たち6人の登場人物を観る視線に、違いがあるのかと。

少なくとも私はだめだ、彼らの心境に想いを馳せてしまう方の人間だ。でも、だからこそ、彼らの命を賭した叫びをスクリーン越しに聞くことができた。

この74分間において、『アイスと雨音』というフィクションと、スクリーンの外側にある現実との境界は消え去り、私は確かに「生きたい」という彼らの叫び声を受け取った。

そして、あらためて自分を省みる。「現実」という舞台を生きる私は、「自意識を持った宇宙」である私は、彼らのように命を燃やして叫べているだろうかと。

その声は、他の宇宙へ届いているだろうかと。