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中村哲也展と佐々木愛展、あるいは作品と性別について

REVIEW

2017.12.29 update.

突然ですが、皆さんは何らかの作品に対して「男性的」「女性的」という表現を使うことはありますか?

よくある? まあまあそれなりに? 差別的な表現のような気がするから、あまり使わない? それとも、意識したこと自体あまりない?

…さて、私自身はといえば、以前文学をたしなんでいたこともあり、この手の「作品と性別」問題についてはかなーり意識しています。

(ただし、あくまで「作品と性別」であって、作り手の性別はここではまったく問題ではなく、女性による作品を「男性的」と表現すること/男性による作品を「女性的」と表現することのどちらももちろんありえるし、例えば「仮面ライダーが好きな女の子がいてもいいし、プリキュアが好きな男の子がいてもいいし、いずれにしても性別を理由としたいかなるマイナスな言及も受けるべきではない」といった立場であることはあらかじめ明らかにしておきます。)

その上で、「男性的」「女性的」という言葉は、ジェンダーバイアスの影響がないとは言い切れないにしても(この辺の言い訳は後述します)やはり、作品を評するにあたって有用な表現のひとつである、と、私は思っています。

 

…と、なぜそんなややこしいことをあらためて主張しだしたかというと、 どちらももう終わっちゃった展示なんですが、先月観に行った下山芸術の森 発電所美術館の「NEW BALANCE 中村哲也展」と黒部市美術館「佐々木愛展」が、まさにその表現をせずにはいられないような展示内容だったので…個人的に。

まあつまり、誤解を恐れずざっくりと総評を言うと、前者はまさに男の子のロマン、後者は女の子のロマンの体現、って感じだったんですよマジで。

 

立体造形の細部の作り込みに、それとなく少年の心を感じた中村哲也展

中村哲也展は、前回発電所美術館が展示替えで休館中に行ってしまった時のリベンジという感じで、ぶっちゃけ最初は発電所の遺構を生かしたナイスな展示室をまた観られれば、まあ展示内容は何でもいいや、という軽いノリでした。

もちろん、それを目当てに来ただけあって、実際展示室自体の雰囲気もものすごーくよくて、「何度来てもいいなここは」という思いを新たにしたのだけど、展示内容も想像以上に楽しめて、何というかやはり色々と安定感のある美術館だなと。

 

展示室。大好きな水圧管の遺構。の、闇。(中に少し入れるけど、奥は本当にマジの闇)

 

もはや展示品そっちのけで発電タービンと計器類を撮る。

 

展示室全景。左下のキューブ状の作品、空間も相まってラピュタっぽさないですか? 「読める、読めるぞ!」的な。それでなくても、SFとかファンタジーに出てくる高度古代文明の遺構的な。

その他にも今回の展示は、全体的に素材と、細部へのこだわりを感じる立体作品が多かった。しかも、ロボットとかマシーンがモチーフになっていることも影響してか、言ってみればプラモデル愛好家のそれにも似た、そこはかとなく少年の心(の概念)を感じるこだわりを。

特にそれを実感した出来事が、中2階に展示されていた「フランケン2014」と「レプリカカスタム」という作品を観ていた時、中年ぐらいとおぼしき男性の先客が、熱い目線であらゆる角度から食い入るように眺めていたこと(それを邪魔したくなくて近くで作品撮れなかった…ので全景は公式Facebookをどうぞ)。

そのあまりの熱量に、プラモ等の立体造形物には疎いもののSFロボットアニメ好き(ただしロボットそのものよりはSFの世界観とか設定が好き)な私の奥にひそむ、概念としての少年の心さえも呼び起こされた気がしました。かっこいいマシーン、いいよね! 確かにこの塗装どうなってんのかとか、気になるよね! SFの世界から現実に飛び出してきたみたいで、わくわくするよね! みたいな。

何というか、こういうわくわく感を形容しようとすると「男の子のロマン」という言葉に行きついてしまうのは…はてさて私の語彙力の少なさか、ジェンダーバイアスによるものか、なんてことを思わず考えてしまう展覧会でした。

 

森や山を描く柔らかな筆致と色彩に、少女の夢を感じた佐々木愛展

そして次に訪れた黒部市美術館の佐々木愛展は、前から佐々木愛さんのお名前と作品は何となく存じ上げていて、へー富山に来るんだ―という感じで気になっていた展覧会。

そんでもってこの展示がまた、中村哲也展とはガラッと180°異なる方向性で、それでいて私の語彙力がさらに崩壊し「好き…」としか言えなくなるくらいどストライクな内容だったので、その崩壊していく様子とともにとりあえず写真をご覧ください。

(ちなみに、会場では写真撮影OK SNSアップOKとの表記があり、instagramでタグをつけてどんどん投稿してね! とまで書かれていた。展覧会もインスタ映えに乗っかる時代ですよなあ…)

広い公園の中にひっそりと建つ小さな美術館(駐車場から歩いてくる間めっちゃ寒かった…)、というシチュエーションも相まった会場デザインも素敵。余白の美。

 

ああもう…

 

好き。

 

好き………。

…という感じで、こう、全体的に植物、鳥、森、山などを題材に絶妙な色彩と手描きの温もりを残した筆致とデフォルメで、これには数多くの女子がハート鷲づかみなんじゃないかと、そう言わざるを得ないほど少女的、あまりにも少女的で、ゆらゆらと心地よい夢にまどろんでいるような世界観。

あと、これは物販を見ていた時にたまたまスタッフさんから聞けたんですが、今回の展覧会には佐々木さんがスイスへ行き、その時見たアルプスの山々の風景からインスピレーションを得て制作した作品も展示されていたそう。

それを知って、あーアルプスか確かにーあのそびえ立つ山の感じ! しかも日本のスイスと自称している(※)富山での展示にぴったりじゃない? その縁でわざわざ富山に来てくださったのかなー、と思うなど。

※若干誇張のある売り文句に見えますが、一応立山連峰はスイスにあるアルプスと地形が似ているということで、日本アルプスの由来にもなってるんです…本当なんです…。

そして、あまりにもいい展示だったので作品集も買っちゃいました。

この作品集、おそらく私が佐々木さんを知るきっかけだった、UMA / design farmのポートフォリオで以前目にしていたということもあり、あー! これこれー! 見たことあるやつー! という感じで即買いでした。ということで言うまでもなくエディトリアルデザインも超グッドです。

 

私が作品を評する時、性別を用いた表現をする理由

さて、最初の話に戻って、なぜジェンダーまわりのことに敏感でありながら、あえて作品に対して性別を用いた表現をするかなんですが…これもなかなか伝えるのが難しいんですが…。

私に限って言えば、作品の世界観の中に下記のような要素を多く含んでいる場合、それらを包括するのに便利、という理由で「男性的」「女性的」という表現を使っている気がします。

男性的→マクロ、拡張、外向、硬質、乾燥、客観的
女性的→ミクロ、縮小、内向、柔和、湿潤、主観的

…ええ、突っ込みどころはおそらく色々とあると思いますしそれは甘んじて受けます。

「かくあるべき」という社会的なあり方ではなく、身体の特徴に基づく根源的かつ観念的な性質への言及なんだ! …と言いつつも、やはりそこにジェンダーバイアスの影響がまったくないとは私も言い切れないです、はい。

でも冒頭に書いた通り、女性の作品に男性的な要素を見出したり、逆もしかりな例も実際にあって、作り手の性別はまったく関係ない、ということは自信を持って言いたいです。

要するに、あくまでその作品自体が持つ性質に対しての言及なんですよと。今回の2つの展覧会では「たまたま」作り手の性別と作品の性質が一致していたけど、例えそうでなくても私は同じ表現をしていましたよと。

まあ、この「作品と性別」問題は本当ーーーに根深い問題で、私もまだまだ掘り返して再考する余地があるとは思うんですが、とりあえず今の意見としてはこんなところです。

 

…あと、これは余談なんですが、以前interior palette toeshoesの記事を書いた後にご本人方とお話しさせていただく機会があって、その時に既にその記事を読んでいただいていたことが判明するという嬉しい出来事があったんですが、 その時に「書かれていたの女性の方だったんですか、男性だと思ってました」とのお言葉をいただいて。

確かに男性的というか無性的な、フラットな文体を目指していたというのはあって、でもその一方で、「あまり意地になって自分が女性であることを隠そうとしながら書くのはやめよう。自然体で書こう」とも思っていたので、嬉しいやらなんやら、狙い通りやらそうでないやら、いやーあはは、という複雑な心境になりまして。

いや、interiorの方に読んでいただいたばかりかご感想までいただけるなんてもう嬉しい以外の何者でもないんですけど!!!

「お前もいざ書き手の立場になったら、めっちゃ自分の性別意識しちゃってんじゃねーか」という、そういうオチでした、という余談でした。